〈55〉信じる者は食べられるパン
この夏、新しい職場に就いた。
これまでと業種も勤務地もあまり変わらない。
だけどだからって、ラクとは限らない。
慣れるまでは、どんな仕事だって人間関係だって、辛抱が必要だ。
私という人間を受け入れてもらえるのか、一挙一動に気が抜けない。
そして今のところ、手応えはない。
一人前に業務をこなせるようになるまでは、せいぜい関心を持ってもらえるのは「最寄り駅」くらいだろう。
それだって、初日に訊かれて以降、記憶に留めてもらえているかわからない。
「あの人、ヤバくないですか?」なんて共通の敵をつくって愚痴を言い合うと仲良くなりやすいよね作戦も私にはまだ時期尚早だ。迂闊に軽口も叩けない。
でも、そんなことらは小さなことだ。きっと時が解決する。
私が今回の転職で、何よりも地味に辛抱たまらないのは休憩時間のめし処問題なのだった。
めし処が、ない。今のところ。
〈デスクめし〉or〈5分ほど歩いてどっかの店〉という二択である。
私がどれだけデスクめしが恥ずかしくて避けているかは〈2〉むかしむかしあるところに馬鈴薯姫に以前書いたけれど、今ではそれを避けるのは恥ずかしさ以上に「退避の必要性」からに他ならない。
法的に赦された一時間の休憩時間くらい、どうか職場から離れたい。
それなのに、適当な休憩スペースはなく、弁当持参でとかコンビニで買ってきたものをオフィス以外で食べることができない。
かといってこの猛暑の炎天下に5分ほど歩いてどっかの店で700円〜1,000円の外食ランチを毎回なんてのは、体力的にも経済的にも精神的にもキツい。
いや、本当は3分ほど歩いたところに600円でカレーを食べられるところがあって一度行ったけど、また食べたいとは思わなかった。
そこで、私が選んだのは、〈5分ほど地下道を歩いた先のパン屋でパン1〜2個をイートイン〉というものだ。
そうすれば、炎天下を歩かなくてよく、400円台までに抑えられ、そして何より、職場から退避できる。体力的にも経済的にも精神的にも、これ以上の妥協点はない。(地下道が結構蒸し暑いけど、炎天下よりマシ。と言い聞かせている。)
そうして、私の“新しき昼パン食の日々”はスタートした。
ほぼ毎昼、週に4度はパンを食べている。
もうこうなったら、この店のパンを全パン制覇してやろう、と思った。せっせと食べた。
だけど毎月新メニューが出るのでその野望もなかなか果たせない。
今日もパンか……と早々に飽きてしまったことを認めざるを得ない気持ちで店に向かう日々。
レジでの接客も、ひと通り全スタッフにしてもらったかと思う。
一度なんかうっかり財布を忘れてレジまで持って行ったパンを泣く泣くトレーごと返すしかなかった日もあった。
もはや店内のどの席だと冷房が当たりすぎて寒いかも把握するまでに。
そんな今日。いつものように入店し、トレーとトングを手に取り売り場を進むと、「あら!」と声を出したオバチャン店員さんが、売り切れかけているパンを今すぐ補充しないととばかりにそそくさとごっそりパンの並んだトレーを持って私を追い越し、かがんで棚に並べ始めた。
すると何故だろう? そのパンが私にはやけに美味しそうに思えた。
一回食べたけどリピートはないかなと思っていた、惣菜パンだった。
けれど、焼きたてを運ばれてきたと見受けるパンたちがビニル手袋着用のオバチャンの手によって、どさどさと手づかみで並べられ切るのを、私は待った。
私がそこで待つことで、自動ドアが開いてしまい、地下道の熱気が店内にじわじわと迫ってきたが、辛抱強く待った。
そして、ついにオバチャンが並べ終えたパン群の中から一番じぶんのお眼鏡にかなった奥の方のパンをトングでむんずと掴み上げた瞬間、オバチャンが私を見上げて咄嗟に言うのだった。
「手前のが焼きたてですよっ」
そんなハズがあるか!! 咄嗟に私も思った。
だってオバチャンが奥に奥に置いてったパンの方が焼き立てじゃないの? 手前のはさっきから残ってたやつでオバチャンが前へ前へ寄せたやつだよね? そっちもう冷めてるでしょう? 古いの買わせようとしてない? だって手前が新しくて奥が古いやつって、そんな陳列聞いたことないよ!……と。
でも、オバチャンがあまりにもきっぱりと言い切ったので、私は「そ、そうですか」とすごすごとトングに掴んだパンを戻し、手前のパンを取り直した。ごねる隙もなかった。
でもまぁ、レジで温め直してもらえるし、それでも全然いいや。と思いレジを済ませた。
そしていつものように、レモン水を紙コップに注ぎ、寒くない席に着いた。そしてパンをちぎろうと両手で掴んだ。すると……
アヅッ!
今までに感じたことのない熱さに、思わずパンをトレーに一度置いた。
なにこれ!! これが焼きたて? オバチャン!!
私はこんなに熱いパンを、この店で食べたことがなかった。
いつも温め直してもらってたけど、こんなに熱いことなんて一度もなかった。
そして、少し冷ましながら、私はちぎったパンを食んだ。
すると何たること、思いっきりおいしかった……! 壮絶、うまひ!!涙涙涙
嗚呼、焼きたてのパンって、こんなにおいしいんだ。と、オバチャンにモーレツに感謝した。
オバチャンは嘘など言ってなかった。
オバチャンはただ、焼きたてのパン優先でお客様にお届けする素晴らしい店員さんだった。
私は、疑ったじぶんをさもしく感じた。
そして、でも、半信半疑ながらも、従ってみることのできたじぶんを、結果こんなにも美味なるパンを食べられたじぶんを、喜んだ。
信じる者は救われると云う。
いや、信じる者は焼きたてのおいしいパンが食べられるのだった。
正直、ここのパン屋をそれほど評価していなかった。
いろいろ食べた結果、一番おいしいと思ったのは、ベイクドポテトパンの、こんがりとベイクドされ、パンの中に丸ごと包まれたじゃがいもだった。じゃがいもじゃん。パンじゃないじゃん。
二番目においしいと思ったのは、塩レモンとハーブスパイスの効いたウインナーパンのジューシーなウインナーだった。ウインナーじゃん。やっぱパンじゃないじゃん。と。
だけど私は知らなかっただけだ。焼き立てのパンなら、メチャクチャおいしいことを。温め直しなんて、小手先の子供だましだったことを。
それを、あのオバチャン店員さんは私に教えてくれた。
彼女はきっと、パンの神様だ。ハレルヤ。
おかげで、新しい職場に来て以来の幸福な休憩をいただけた。アーメン。
うまいうまいと食べながら、私は隣の席の青年のトレーの上に、パセリだけがよけてあるのが目に留まった。
「ダメじゃんパセリ残しちゃ。私がもらっていい?」そう言うと彼は「いいけど。苦くない?」と尋ねながら私がパセリを「この苦味がいいんだよ」とつまんでもぐもぐ食べるのをじっと見つめ、それから不機嫌そうな表情を浮かべた。「どうしたの?」と訊くと、彼は「もうあげないよ。そんなにおいしいなら次からは俺が食べる」とむくれてみせたので、可笑しくなって私は笑った。彼も次第に、笑った。
……という場面が浮かんで、さらに満ち足りた気持ちで休憩を終え、職場へと戻った。
“人はパンだけで生きるのではない”?
そう、人はうまいパンで生きられる。