大島智衣の「oh! しまった!!」

しまったあれこれ随想録

〈19〉エントランスまで行った。

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始発待ちのカラオケボックスで、ザ・イエローモンキーの熱いエモ曲『球根』を歌いながらホント、明け方にひとりでなにやってるんだろうと思った。 私なんかの弱っちい声帯じゃ、圧倒的なボーカル吉井和哉の声量の10分の1も出やしないし、エモくもないし、そもそも始発を前に男に先に帰られた。なんで!

3時くらいだったと思う。 学生時代の友人男子とものすごく久しぶりに会い、彼の住む街で飲んだ。彼が、愛すべき家族と住む街で。別に……なんていうかさ。そうだよ、好きだったよ学生時代に彼のこと! でも昔の話。今では家族を持って、仕事して、良き夫であり父であり、上司や部下。私じゃない誰かの。ただただ、懐かしく愉しく飲んだ。期待なんかしてない。これは本当。下心なんて持ってたら彼の家族にも失礼だ(なんとなく)。私だって彼だけをずっと好きでいたわけじゃない。だけど終電くらい逃すよね容易く、喜んで逃す。だって、ものすごく久しぶりなんだもの。終電なんてこんな日に逃すためにあるようなものではないのだろうか。 それが、3時くらいだったと思う。「そろそろ帰る」と彼が言い出したのだった。翌日(というか地続きで当日)、朝から家族で遠出なのだそうだ。

私には分からない。あと一時間かそこらで電車が動くってのに、あと一時間かそこらも付き合って始発を待ってはくれない、昔からの馴染みだったはずの友の気持ちは。当時はいくらだって仲間皆んなでオールした仲じゃなかったか。それがもう、一緒には朝を迎えてはくれないのだ旧友は。 おまへは歩いて10分やそこらで家に帰ってバタンキューだろうが、私はここから始発を待って電車を乗り継ぎ、多摩川鶴見川も(知らないだろうけど掘割川も)越えねばならないというのに。 彼の心境および状況は、独り身の私には到底分からない。と、いうことだけは分かる。時の流れとは……。

引き止める気は起きなかった。私だっていい大人だ。終電を逃した後始末くらいじぶんでできる。その覚悟がないと終電って逃しちゃいけない。 家庭を持った者には家庭を持った者の事情ってものが、あるのでしょう? 家族大事だもの。素晴らしいもの。今の彼を支えているのは紛れもなく家族。帰らなきゃだよね、そりゃ。この時間まで呑んでくれちゃったことだけでもありがたいと思わなきゃ? うん。だから私はもう、そこらの安宿にでも一人で泊まることにする。シャワー浴びてメイク落として、歯磨いてさっぱりして、寝たい。さっき、飲み屋を探して二人で歩いていたときに、いい感じに古めかしい旅館風のホテルがあったじゃない。そこで少し寝て、そのまま出勤すればいい。いっても一泊6,000円くらいでしょう?

「じゃぁ、そこまで送るよ」 彼が宿までついてきてくれた。いいのに。一緒に泊まるわけでもないのに、ホテルのエントランスまではついて来てくれるって、なんて中途半端な優しさなのだろう。一緒に泊るわけでもないってのに! 残酷で滑稽、そしてやっぱり優しさ、なんだろうけど。

「12,800円です」 暗い窓口の向こうから、そこそこお年を召した女性の声でそう案内された。 高っ! でも、ひっ、一人ですよ、泊まるの! 「12,800円です」 ぐう。こんな古ぼけた旅館が一泊12,800円もするなんて。完全に足元を見られている。もうあっという間にホテルをあとにした。 けれど、そっか……と街なかに引き返しながらしみじみと込み上げてくる。世間の男女は12,800円でも払って誰かとの夜を買うのだ。ひとときの愛を確かめ合っちゃったりするのだ。そしてそれが、永遠の愛を誓うきっかけの夜になったりもするのだろう。 とすれば、そのための12,800円なんて、なんと微々たる代価であろう。私はそんな夜を見逃し続けて来たから、今こうしてひとりなんだろーか。

見逃したー! やってはくれまいか、見逃し配信? や、でも見逃した場面を今さら見ても意味ないか!

だけど。私だって払えたかもしれない。彼と“そういうこと”になれたかもしれないなら。と、ふとよぎる。 学生だった20世紀のあの頃にはあんなにも待ち望んでいた恋のチャンスが、何十年越しに巡ってきた21世紀最大の好機だったんじゃないのか。12,800円なんて安すぎたくらいだ、と。(できれば割り勘にしてもらえるとありがたいけど。) でも、この夜のこれは違う。そんなことになるわけも、なるわけにもいかない彼を帰し、たったひとりで、ちょっとばかし寝るために12,800円は、もうそれは、ゼロ二つ分足した金額くらいのダメージ! 128万円のひとり寝! ドバイじゃないんだからさー、ここ。

そうして、私はひとりカラオケボックスに落ち着いた。 その受付にもついて来てくれた彼は「これ」と5000円札を私に差し出した。いいのに。というか、それならいっそ、その5,000円であなたの一時間を買えないのかな。……買えないよね。幾ら出したって、もう買えない。とうに誰かのものになった彼の背中を見送った。

だけど、いいやとも思えた。あの頃とても好きだった彼と、ホテルのエントランスまで行ったのだ。それだけでもう、お腹いっぱいだった。もはや、幸せがどんぶり勘定! 息が切れて、『球根』は最後まで歌えなかった。